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「踏み絵」思いついた奴ヤバい

歴史を振り返ると「アホやん」と思うことが多々ある。戦争とかアホやんとなるけれど、今現在もアホな歴史を刻んでいるのかもしれない。未来人が笑っている。

とにかく「踏み絵」を考えついた奴やばい。江戸時代の長崎ではキリスト教が弾圧されていたらしいけど、切支丹を炙り出すためにどうすればいいんだろうという話し合いになったとき、「イエスとかマリアを踏ませましょう!」って言った人がいるのだろう。ヤバい。crazy。思いついた奴はホラー映画の監督でもやれば大成していたかもしれない。

でもなんで踏まないんだろうと思う。プロテスタント偶像崇拝をしないので、踏めたそうだけれど、カトリックは踏めなかった。踏まなかったら死刑。拷問。踏めばいいのにと思ってしまう。その時に神に「踏んでいいですか?拷問されたくないので」ときけば「いいよ」って言いそうって思ってしまうけれど、これは自己解釈でよくないらしい。なかなか難しいな、と思う。大宗教であるがゆえの難しさだと思う。勝手に決めちゃいけないということらしい。踏み絵を拒んで殉教しても、天の国が待っている。踏み絵をして、逃れていつか死ぬ時に天国に行けるかどうかわからない。天国ってどのくらいの長さ滞在するか知らないけど、現世100年、天国1000年だったら殉教しようとなるかも知れない。もし天国がないなら踏まないと思う。

バランスは常に難しい。バランスが取れている人はすごいなと思う。どこまでを自分で決めてどこまでを神に決めてもらうかのバランス。全部神に決めてもらう方が楽なのだ。不自由と自由。

敬虔な信者は絵を踏まずに死んでいった。殺すなんてひどい。キリスト教の勢力が幕府を脅かすと思ったらしいけど、脅かされていいじゃんと思ってしまう。どうせ50年くらいで死ぬんだし。繁栄したところでどうせ滅びるし。いい感じに生きれればいいんだよ。みんなが。バランスバランス。

かくいう自分はバランスを取るのが下手で行ったり来たりで辟易している。バランス感覚を磨きたい。磨いているうちに人生は終わっていく。遠目から見るとそれでバランスが取れているのかもしれない。

めちゃめちゃ嫌な奴がいて、めちゃめちゃ良い人がいて、犯罪者がいて、慈悲深い人がいて、デマ流す人がいて、悪口言う人がいて、励ます人がいて、世界はバランスを取っている。通念的にこれはダメだと思うことでも人間はやる。それは単なる娯楽ではない。その人のバランスを取っている。生きていると嬉しいことも時々起きる。そんなときにYouTubeのコメント欄に悪口書いたりはしない。そういうバランスの取り方が宇宙の真理的にダメかと言われるとそれは謎である。実は宇宙の真理的には戦争が正しいかも知れない。でも地球上を見ているとダメっぽい。生きづらくなる。

人間は損得勘定が上手い。損害を受けたら損害で返そうとする。生き残るための本能。でもどうせ多くの人間が生き残れる。じっとしていよう。それが一番バランスが取れる気がする。今は。

踏み絵を思いついた奴はきっと悩んでいたに違いない。かわいそうに。彼に幸あれ。あーめん。