おすしブログ

お寿司ブログではないです

一年を振り返らず

いい思い出だけを綺麗なまま保管しておくことはできない。いつのまにか嫌な思い出も埃のように溜まっていて、頭の奥の方から嬉しい日々を引っ張り出すと、ふわっと埃が舞って、静かに戸を閉めることがある。

僕は埃を見るにあたって視力がいいらしい。汚いモノが目につく性分で参ってしまう。

眼鏡を取ると街灯や信号のような夜の光はぼわっと広がって見える。それが集まって花火のように見える。なかなか綺麗だと思う。

昔から見えすぎるのが嫌いで、メガネはよく外していたし、度数は出来る限りゆるくして、視力検査のたびにボーダーラインで鋭い勘を働かせていた。

肉眼的なものだけでなく、見たくないものは見ないでおこうという思いがあった。しかし見ようとしないのは悪いことなんじゃないかという思いもあった。だから想像でいろんなものを補った。頭の中で見ていることにした。

想像力はまさに諸刃の剣で、使い方を間違えれば被害妄想、強迫観念と自分に刺さることが多々ある。同時にものごとの楽しみ方に幅が出るというか、思慮深くなるというか、芸術性があるだとか、ポジティブな側面もあると思っていた。

今になって思うのは、悩みの大半は想像力が生み出したもので、想像力よりも見たままのものをノイズなしに享受できる力の方が大事なんじゃないかということだ。それは自分がいろんなものを見ないようにしていたからなのかもしれない。今何かを見なければいけないとき、見るだけでいいのに、何かを想像してしまう。その想像には常に光と闇が両面に存在していて、闇の方がよりリアリティをもって描かれている。

想像なんてほとんど役に立っていないと思っている。ある程度の危機管理というのは想像以前に、行動で律するもので、街路樹に隠れた毒蛇が飛びついてくるような世界じゃないのだ。

役に立たぬとわかっていながら、捨てられない想像力。どんどん大きくなってもう1人の自分のように語りかけてくる。

瞑想や、スポーツ、酩酊、、想像力を抑えるイベントは意外と自分にとって重要であった。

何か書くことも良いことだと思う。誰かと話すことも良いことだと思う。

映画監督になりたいなって思っている。映画には音楽も絵画も文学も芝居も全部ある。まさに想像力を枯渇させるほどの要素を含んでいる。一度自分の想像力を枯渇させるほどの創造をしてみたいと思う。

それは誰かを幸せにするためではなくて、結局を自分の安楽のためだ。よく知らないけど、実際のところ芸術家ってそういうものなのではないだろうか。他人の心は知り得ないし、自分の本当の幸福に寄与しないことに全力投球できる人なんていないと思うし…。

映画を撮ることなく死んだら、来世で映画を撮ろうと思う。来世は映画の大学にいくなりなんなりして、そっちに集中してやります。いまは逃げ道が多すぎて、想像の中で遊んでいるだけですね。

一年は振り返らず、今を見つめて何かを感じて、いつのまにか夢が叶っているという人生が、いま欲しいもの。サンタさんは来なかったが、道に迷っているだけで、そのうち来るだろう。楽しみに床につく。これは良い想像。