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バイキングに行くべき理由

 

 食べ放題のことをバイキングというのは映画のタイトルに由来する。船上で食べ放題のシーンがあり、そのシーンをみて帝国ホテルが食べ放題のことをバイキングと呼んでみたと。
 食べ放題には終わりがない。無限に食べていい。無限に食べることはできない。食べすぎたら気分が悪くなる。それでも無限に食べていいという事実は変わりがない。食べ放題は無限の幻想を見せてくれる。私は何度も吐きそうになって、二度と行くまいと思い店を出るのだけれど、それを引きずらない。
 無限とは自由の足跡である。私はその足跡を辿り、高嶺の花を夢想する。どこかで行き止まりがあると決まっているのに、ご機嫌に歩いていくことができる。
 バイキングは赦しの場である。食べていいという赦しである。欲しいものを好きなだけという、大富豪の気持ち。道を八割がた進んでいくと、大富豪が感じるであろう童話的な虚しさもなんとなく感じることができる。

 思い返せば実家にいたときに、母が作った料理は常に十分な量があった。実家にいて24時間空腹になった記憶は無い。恵まれているというやつである。お陰でこんなに大きくなった。未だに実家に帰ると凄い量のご飯が出てくる。よくある幸せな食卓というやつだ。
 食べ放題を批判するものは口を揃えて「終わりがあるから美しい」という。それはある意味で正しいのかもしれないが、ある意味では全く的外れである。本当に美しいものは無限である。終わりがない。終わりがあるとか、移りゆくとか、そういった条件は、美しさの一つ下の次元にある。美しさに説明は不要。説明はまた別の視点である。
 山盛りの料理を見て無限を感じる。数多の種の料理をみて自由を感じる。純粋な喜びを感じている。私は今、美しさについて説明している。それは無粋なことのように思える。バイキングに行って、我々は赦された存在だと確認し、喜び、そして苦しみ、悔やみ、また忘れて憧れる。人生の小さなダイジェストに自分のことを重ねてみて、一つ下の次元で落ち着こうと模索している。