おすしブログ

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タトゥーを入れたい女の人

中学生のころ、通っていた美容院でアルバイトしていた女性の美容師さんが、「タトゥー入れたいんですよね」と話しかけてきた。その人は25歳くらいだったと思う。もうちょっと若かったかもしれない。僕はどんなタトゥーを入れたいんですかと尋ねた。耳の後ろに星を入れたい。蝶々もカワイイかも。

と言っていた。その当時の僕はそれに反対した。どういう風に反対したかというと、人間の皮膚は伸びたり縮んだりするので歳を取ったときに体型を維持していないと絵が崩れちゃいます。いま星や蝶々が可愛いと思っていても、10年後には星と蝶々が嫌いになっているかもしれません。10年後も同じ服をおしゃれだと思えないのと同じです。

その店員さんは、え〜と笑っていた。絶対おしゃれじゃん。と、言っていた。僕はやめたほうがいいと熱弁したけれど、今思えばまじでどっちでもいい。まじでどっちでもいいですなんて言うと、変な風に髪を切られたかもしれない。

10年前以上の話だけれど、当時はタトゥーは悪いイメージだった。むしろただのイメージしかなかった。タトゥーについて考えたこともなかったし、タトゥーが入った人に関わったこともない。今も関わったことはないけれど、何で人はタトゥーを入れるのかぼんやり考えたりする。

蛇にピアス」という芥川賞を取った小説があって、主人公の若い女性はピアスとかにハマっていき、舌にもピアスをが開ける。映画化していて吉高由里子が超絶綺麗だと思った。その映画の中で吉高由里子は、痛みを感じると生きてる実感があるみたいなことを言っていたと思う。おそらく自傷行為的な側面があったのだと思う。

採血実習の前夜、飲み過ぎて歩いて5分のところからタクシーで帰った。おつりはいりませんと言ってマンションのエントランスで倒れて、友達を呼んで部屋まで誘導してもらった。起きたら採血実習が始まっていて、学務から不在着信が多数あった。休んではいけないやつだったので、「はやく行ってください!!」と学務からフレンドリーなメールが来ていた。猛烈な二日酔いで、着替えずそのままマスクだけして採血室まで行った。こういうときって学校に行くのがとても憂鬱になりそうなものだけど、二日酔いが酷過ぎて何も思わなかった。寝癖も浮腫んだ顔も全く気にならない。遅れて行ったときにみんなに見られる感じも気にならない。普段ならめちゃくちゃ嫌な気持ちになるのに。

他人からどう見られるかが気になるとき、ある程度肉体は健康なのかもしれない。人間関係で悩んでいるときに、猛烈に腹を下したら、差し迫った問題は腹痛に置き換わる。自傷行為はそういう差し替えのために使われている部分もあるかもしれない。

長距離走をしているときもそうかもしれない。息が切れて多くのことを考えられない。仕事が忙しいと考える余裕がないかもしれない。スマホをいじり続けていれば考えたくないことから意識を逸らせるかもしれない。

僕の考えではタトゥーには三つの側面がある。

一つは威嚇です。これを言うと怒られるかもしれませんが、現代日本ではちょっとあると思います。舐められにくくなるのは間違いありません。差別化と言ってもいいでしょう。関わる人間を減らせます。

二つ目は帰属意識です。あるコミュニティに属していることを示すものならそのままですが、現代日本なら、「タトゥーを入れている人」という大枠に入ります。これはタトゥーがまだ浸透していないから存在し得ます。「ネックレスをする人」という枠はほぼ無いと思います。ある意味、宗教の選択にも似ています。これもちょっと挑発的な意見かもしれませんが、「ハードル下げ」をしているのかもしれない。

三つ目はイズムです。人間というのは考えが無限に湧き出てきて、色んな価値観がごちゃ混ぜになって悩むものです。エントロピーがでかくなっていくからです。エントロピーを小さくするには、信念を持つことです。自分は「これだけは守る」という何かがあると、決断の助けになりますし、後悔もし辛くなります。さて「明日から怒らないぞ」と思っても、なかなか続きません。「怒らないぞ」という意味を込めたタトゥーを彫ると、自分がそれを主義として掲げていることがわりと明白になる気がします。個人的な儀式です。イズムがあると強いです。

長々と書いたけれど、刺青が入ったひとを見かけると身構えます。でも話を聞いてみたくなります。その刺青が持っているイズムが知りたい。そこには弱さも強さもある。人間らしい行動。

いまの自分が、タトゥーを入れたい女の人に出会ったら、まぁどっちでもいいんだけど、「せっかくなのでどんなタトゥーを入れるかめっちゃ考えましょう」というだろうな。何入れるか考えるのは楽しそう。僕は実家の猫ちゃんの刺青かなぁ。そこにはのらりくらり生きたいというイズムがあるのです。