隣の芝は青い。
自分のものより、他人のもののほうが良く見えるということを意味する表現。(引用)
自分の芝は隣に比べて赤い。枯れていたり、土が見えていたりして赤い。「赤い」という表現で合っているのだろうか。茶色い、黒い、色々あるけどなんとなく「赤い」でいいと思った。
窓を開けて自分の庭を見てみると、芝生が真っ赤になっていて驚いた。まるで地獄に生えている草のようだ。寝ている間に血の雨が降ったか、巨人がケチャップをこぼしたのかもしれない。そして驚いたらすぐに絶望がやってきて、縁側に座り込んでいると悲しみがずっしりのしかかる。
ということは古代からあったはずなのに、「隣の芝は青い」という表現が流布している。他人を羨むよりも自分に落胆することの方が多い気がするのだけど、自分だけだろうか。確かめようがないのでこのまま進む。
縁側でじっとうずくまって自分の芝を横目で見ていると、ある疑問が湧いてくる。
「さて赤色とは何だろう」
色は真っ黒を除けば光なわけだけれど、これを網膜が捉え視神経が電気信号として、いろいろ通って後頭葉に届き、前頭葉と協力して認識する。人間が認識できる光は可視光線と呼ばれ、蜜蜂くんは紫外線が見えるので、蜜蜂くんのそれとは異なっている。そのおかげでお花さんの蜜がある部分が人間とは異なったコントラストで見えている。
当然のことながら蜜蜂が私の庭を見たら赤くは見えない。生物学者(哲学者)のユクスキュルは多分こんなことを言っていた。「客観的に世界を捉えることはできん!全部、主観だ!」みたいな。確かにそうかもしれない、と思っていると蜜蜂がぶ〜んと飛んできた。落ち込んでいる私をみてこう言う。
「ずいぶん良い芝だね」
なんだって、地獄のような芝だぞ。
「いいなぁ、僕もこんな芝欲しいなぁ」
それならくれてやる。かくして私は蜜蜂となった。私は蜜蜂として生きていた。初めの何日かはその新鮮さに驚嘆し、一日中飛び回っては蜜を吸っていたが、すぐに飽きた。人間のうちにやっておけばよかったなと思うことが沢山あった。映画を観たくなったけれど、映画館に行くと殺されかねない。オードリー若林のキューバ紀行も最後まで読めてない。カレーライス食べたい。お風呂に入りたい。
飛び回っていると至る所で人間に遭遇する。その度にやりたいことが頭を巡る。羨ましくて目が回った。そして蜜蜂はつまんないなぁと思い始めたとき、私は真っ赤な芝生の上を飛んでいた。
私は赤い草にとまり、羽を休めながら思った。隣の芝が青いと思ったから、自分の芝が赤くなるのだと。そして青い芝の持ち主は、他人であったり自分が作り出した理想像であったりする。しかし、その芝が本当に青いかはわからない。いまこの瞬間の自分にはそう見えているけれど、一生そう見えるわけじゃないことには気付いている。常に世界の芝生の色は変化している。赤い芝も愛を持って手入れすれば、誰かさんから見ると青々と映る。だからどうと言うわけではないが、愛があれば色は関係ない。私は蜜を運ぶのをやめて青い芝の上で眠った。