おすしブログ

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他人との関係について(読価値無)

おそらくこれは永遠のテーマであって、いつか落ち着いたら本気で描いてみたいテーマのうちの一つである。現段階の結論としては、他人から良い影響だけを受けて、嫌な思いをしないことは不可能である、と言ったところだ。理由は他人は複雑だからである。人間の脳もすごく複雑だけれど、他人の脳もすごく複雑で、その脳が無数にあるのである。複雑極まりないけれど、単純化してすっきりしたいなって欲が出てくる。エントロピーを下げたいというやつだ。そして現代では非常に単純化されて、さまざまな人間が他者との関係を論じている。溢れかえっている。書籍からセミナー、YouTubeに至るまで、自分の人生を生きろと叫んでいる。そしてそれらに触れてみると当然だと思う反面、少し気が楽になったりする。しかし(私の場合)すぐにまた戻ってしまう。現実は単純じゃないからだ。

やはり安易な解決は解決にならないのだなと思う。1000円の本、0円のYouTubeでは完璧な答えはない。だから10万以上払って宗教などに求める手がある。10万払うと人間は頑張る傾向にある。その気持ちはよくわかる。スポーツにおいて、ウェアの値段がその日のパフォーマンスに影響を与えるのは有名な事実だ。しかし、お金を払って解決していればみんな大金を払って解決している(謎構文)。しかし無限に悩める人は湧いている。その理由を私なりに考えてみるとこうだ。脳が脳を諭すという状況であるから、癒す側の脳(癒し脳)と癒される側の脳(癒され脳)という二つの変数があるのに、癒され脳についてだけ焦点を当てているものが多い。わかりにくくてびびる。義務教育の敗北。国語再履修します。

癒し脳

→「他人の目なんて気にするな!」と言う方

癒され脳

→「確かに!そうするわ!」と納得する方

「他人は気にしない!」と言われて納得できるとき、癒し脳は元気であることが多い。だからうまくいく。しかし励ましや考え直しがうまくいかないのは、癒され脳のダメージが大きいときは、相応にして癒し脳も深傷を負っているからだ。だから治療のパワーは小さく、治療の効き目はダメージに対して小さい。そこで沢山の薬が出てくる。アルコールから違法なものまで、癒し脳の代りに使われる。これは効き目が倍である。場合によっては倍以上である。もちろん解決にはなってない場合が大半だけれど、依存症を根絶することができないのは納得である。

そして弱った癒し脳の代わりとして登場するのが、「他人」である。さまざまな媒体から得た情報とオーバーラップする部分もあるけれど、そこも含めまして、うまくいかない理由がここにある。直接的な「他人」からの助けによって、癒し脳が頑張り、癒され脳が回復する。しかしこの状況下でも確実に単純化して癒され脳に納得させていまるので、今現在自分を助けてくれた「他人」を、有害な「他人」と全く別のものだと割り切ることが難しい。他人のよって癒される快楽を享受しながら、その後、無数の他人から癒される可能性をきっぱり捨てることが難しい。

まぁこれは私の話なのだけれど、時々みんな良い奴に見える。実際は良いも悪いもないのだろう。ただ存在しているだけ。ランダムネスに私に影響を与える無数の外因たち。結局回復した状態の脳は、リスクを冒すことを恐れない。ドーパミンを求めて走り出してしまう。勝手に抱いた期待が、ジャンケンのように確実にいつかは負けるときがくる。だからこう言う考えがある。他人は全て無視!何も考えるなという考え。悟りの境地。しかしこれは1日と持たない。何故かわからないけれど、人間は他人との関係を求め続ける。繁栄の本能なんだろうか…。

単純だけれど、やや複雑に対応できる理想系はこれだ。まず癒し脳の状態によって思想を変える。もしかしたら考えを貫くのは大変なのかもしれない。人間は飽き性だから。じゃあどうやって思想を使い分けるのですか、というと、もうすでにやっている方法なのである。あーでもないこーでもないといいつつ、これだ!!とピンと来てまた落ち込んで、復活して、とやっているのは思想の使い分けを模索している状態なのである。何の意味もない文章だなと思いつつ、これを読ませるのは申し訳ないとまで思う。ただ、他人の考えはやはりわからない。私の中の他人は本当なら自分でコントロールできるはずなのだ。私は他人というギャンブルを楽しんでいる。しかし、同時に賭け金の上限はきっちり決めている。その中で脳🧠を頑張らせている。鬼のような考えをもてば、他人を圧倒できる。そういう人間は社会ではヤバイ人間なのだ。時々見かけるヤバイひと、ああいう人たちは耐えかねて悪魔に魂を売ったのだ。でもそれも人生だよね。ね、ハム太郎