おすしブログ

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天才

身の回りにこの人は天才だなって思う人が何人かいる。その人たちにあなたは天才ですよって言うと、いやいやそんなことありませんと言う。

僕はその人の全てを見たわけではないので、その人が言っていることが正しいのかなと思って口を噤みます。

でもやっぱり天才だよなぁと随所で思いながら、いつかその天才っぷりが世間に評価されたときに、僕はいち早く見出しましたよ!と声高々に言ってやりたいと思う。

その天才性が顕在化しなくとも、別に評価されずともそのひとにとってはいいのかもしれないけれど、何か勿体ないなぁという気になってしまう。なんというか、天才として生まれてきて、天才として育つのは中々に難しいことだと思うからだ。ちょっとした奇跡だと思うのだけれど、本人たちは全くの無関心か半信半疑で生きている。

他人の人生だから無責任に言えるのかもしれない。たとえば君は天才だから小説を書きなさい、と僕が言ったとして、その人が一念発起して寝ても覚めても筆を走らせて、お金にならず落ちぶれてしまったら僕は何の責任も取れない。だから言えるのだろうか。天才と言われて悪い気はしないだろうから、言ってしまうのだろうか。

芸術ってなんでしょうか、色んな説明がありそうで、勉強してないのでわかりませんが、別に何でも芸術だと言えると思います。僕は芸術は良い意味だと思っています。悪い意味のものを芸術だとはしないです。僕にとっては。

だから受け取り手の問題です。芸術だなぁ、、と思ったら芸術です。芸術家は人間の海に釣り糸を垂らします。すると誰かの心に掛ります。楽しそうです。その瞬間芸術になります。こういう世界を僕は芸術的だなと思います。生きることの肯定です。

天才たちは是非、釣り糸を垂らして欲しいです。誰かが、その蜘蛛の糸を切に待っているかもしれないからです。でも別に他人を助けることは絶対的に必要なことではないのです。自己満足が前提です。

自己満足しよう。世界自己満足キャンペーンです。そんなの自己満足じゃん、と言われたら、静かにその人の目を覗き込みましょう。その言動でその人も自己満足しているのです。愛くるしい世界。

もしかしたら天才かもしれないと思っている方は、天才でほぼ間違いないでしょう。それは人と違うから天才だというわけではありません。ただあなたが天才なだけです。

身の回りの天才を静かに見守ることにしよう。僕はいつか余裕があれば映画を撮りたい、と言っていますが、天才たちと撮りたいなと思います。

天才として、頑張りましょう。