おすしブログ

お寿司ブログではないです

雑感

備えあれば憂なしは嘘である。

憂なき状態などあり得ない。

 

〇〇くんは悩みなさそうだね、と先日言われた。これは喜ばしいことである。そんなことないよ、とは言ってみたものの、悩みのプレゼンほど悲しいこともない。人類はみな悩んでいるはずだ。それが現代の人類の最後の連帯感であろう。

 

大の大人に怒りを向けられたとき、それを受け流すことができない。もしここがジャングルだったら棒でしばいてるのに、と思うけれど、これも怒りであり、怒りに怒りをぶつけるのは余計に温度を上げてしまう。

小学生の頃から、いやもっと前から、怒られたら反省をしているフリをしろという了解があったような気がする。眼光のスイッチを切って、10°ほど俯いて、声のトーンを絞って、念のため涙腺の元栓を開けておく。ここまでしていると、感情の方も引っ張られ、悲しさが増す。マスクの下で口角を上げて何とか滑稽にしようとするけど、感情が混乱して不愉快になる。

叩かれた部分は硬く強くなるというが、心はなかなか硬くならない。心は水信玄餅のように透き通っていてフレキシブルである。そしてそれ自体の存在の美しさが癒しになる。ぽよよんと打撃を無効化する心が理想的だ。殴った方の拳が傷つくこともなく、怒りがぷるるんに変換される。

 

芸術家になってなんらかの作品が1000万円くらいで売れたらなと思う。こういうマインドで成功した芸術家はいないんじゃないか。芸術家と呼べないのかもしれない。芸術家を目指す資格が奪われそうな発言でした。

 

ぐちゃぐちゃの絵が2億とか値段がついているのを見ると、勇気づけられる。めちゃくちゃでもいいんだと思える。秩序の中に無秩序あり。自分の中の無秩序にも水やりしておこう。

 

教習所でカーブの曲がり方を教えてくれたのは、金色のロレックスをしたふくよかな強面の教官だった。カーブに入るときはアクセルから足を離し、カーブから出る前にアクセルを踏み込む。そうするとハンドルが勝手に戻ってきてかっこいい。私はそれを何度かやってみて、どうでしょうかと彼を見ると居眠りしていた。そして彼はもう一つ大事なことを教えてくれた。カーブを曲がるときカーブの先を見ろということだ。これは非常に役に立った覚えがある。

カーブとは違って人生において先のことを考えると暗い気持ちになる。幸せは気の持ちようかもしれないが、いわゆるパッケージングされた幸せのセット(これこそハッピーセット)に到達するためにクリアしなければいけないことが多すぎる。

その過程を楽しめなければvery hardであろう。人生はマリオのように楽しめる工夫を与えてくれるわけではない。クッパをぶちのめせば幸せになれるらしいが、クッパに辿り着く前にゲームオーバーになったり、運良くクッパを倒せたとして、クッパなき世界がどれほど素晴らしいかはハテナである。

 

前回の文章にも書いたが、人生は〜から始まる文章は自分に言い聞かせている。Twitterを見ていて、みんなが色んなことを断言しているけど、それを見ていると不安になる。実際断言できることは無いなと思っている。かといって彼らを批判するわけでもない。自分もたくさん断言している。〇〇だと思いますをレポートに多用して、先生に怒られました。「お前がどう思ってるかなんて関係ないんだよ」と言われました。じゃあ猫の何でも屋さんに頼んで書いてもらいますよ、と心の中で捨て台詞を吐いて、「すみません」と伏し目がちに呟きました。

 

文章を書くのが好きだ、人と話すのが好きだ。これは割と間違いないと、最近思えてきた。

職場で「君の好きなことは?」と聞かれたとき、人と話すことですというと、びっくりされる。どんどん喋っていいよ!と心にも無いことを仰る。

誰とでも楽しく喋れる明石家さんま的マインドは持ち合わせていない。楽しく喋れる人とは楽しく喋るというだけだ。

昼休みに同僚とすこしお喋りするのが職場で一番楽しい。昼休みの大切さを実感する。

 

暗いことは書きたく無い。嫌なことを馬鹿馬鹿しく書いて浄化したい。馬鹿馬鹿。ばーか。