おすしブログ

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包丁

何かを成すために必要なエネルギーを得るために、またエネルギーが必要という、古典的な笑い話のような。服屋に着ていく服がない。眼鏡を探す眼鏡がない。投資する金がない。部屋でじっとしていると僕以外の人間がせっせと塵を積み上げて、山を築いているような気がして、居ても立っても居られない気分になるのだけれど、居ても立っても居られなくて動き出すほどのエネルギーがないで、居ても立っても居られないまま居て座っている。

数十年前の情景を思い浮かべて暇を潰している。祖父は畑仕事で手の皮は厚く、黒ずんでいた。不器用そうに見えて、不器用そうに包丁を扱うのだが、一度も指は切らなかった。刃が入るマージンが少しくらいはありそうな皮膚で、手袋をしているみたいな安心感があった。祖父の作る味噌汁は具がいちいち大きすぎるのと味噌の濃さが一定しなくて、なんとも評価し難いものだった。ときどき葉野菜の茎が大きく残っていて、嫌な感じだった。残していいか、と聞くと祖母はだめだ、と言った。

反対に祖母の包丁さばきは見事なもので、洗練されていたと子供ながらに思った。祖母が持つ包丁はいつもに増して切れ味が鋭そうで、細くて白くて皺皺の指を削いでしまわないか心配で見てられなかった。一度親指を切ってしまったことがあったと思うが、僕は子供部屋に戻って昆虫図鑑を眺めてその事実から逃れていた。だからその傷が辿った経過を知らない、というか覚えていない。しかし、昆虫図鑑の表紙のヘラクレスオオカブトは「銀色の鋭利なものと赤色の粘液」と謎のシンギュラリティを持ってしまって、あまり開かなくなってしまった。それ以来、かどうかは定かではないが、ときどき鋭い刃をふと想起して、背筋が時々寒くなるのだった。包丁を見るたび、刃が白い肌に音を立てずに入っていくアニメーションを嫌々ながら思い描いてしまう。一種の強迫観念のようなもので、おそらく皆も何かしらあるだろうと思う。

町中自転車レースの最中に後輪を自動車に引かれて宙を舞った友達。僕は彼より1馬身先に居たのでドンという音とタイヤの擦れる金切り音で振り返って、レースがノーコンテストになったことを知る。ドライバーは人の良さそうなオバさんで、彼の家にコオロギを持ってきた(今思うと子供を轢いた人が持ってきた昆虫なんて、と思う)。玄関に設置された虫かごからりんりんりんと聞こえた。か細い鈴の音と、人を轢く音が僕の中ではリンクしている。コオロギが大量に飼育されている宗教施設にいったことがある(詳細は控えるがほんとうの話だ)。指導者の話を聞きながら、りんりんりんとそこそこの音量で聞こえてくる。指導者はコオロギを交えた冗談を言って小笑いをとっていた。笑い声は虫の音にかき消されるほどで、静かな空間じゃなくてよかったと茶を啜りながら思った。ここまで書いていてコオロギと鈴虫を混同していることに気づいたが、僕は鈴虫のこともコオロギと呼んでいるということで手打ちにしてほしい。

僕は包丁を見るたびになんと恐ろしい形だ、と思う。刃にはエネルギーがあるように思う。どんなにそっと近づいても、刃はすうっと体の中に入ってきそうな気がする。僕は職場ではそういう人間になりたい。上司に小言を言われないように。コオロギの大群が悪い奴らを訪問してくれるよう。