念には念を、と乗る電車を一本ずつ早めていった結果である。
さて今日の昼、私はとある駅の改札近くのベンチで人を待っていた。
約束の時間まで40分ほどあった。
すると隣におじさんが座ってきた。
そして話しかけてきた。
私は慌ててイヤホンを外して、どうしましたか、ときいた。
おじさんは「俺が鮫に食べられて死んだ話だよ」と言った。
世の中では人の理解を超えた不思議なことが起こる。
科学で説明できないことも沢山ある。
だからちょっと変わったおじさんに出会うことはそうそうおかしなことではない。
私はおじさんの話を聞くことにした。
年配の方の話は聞くものである。
「俺が鮫に食べられて死んだ話を聞くんだな」
とおじさんは言った。
みなさんはこう思うだろう。
「死んだならお前は誰なんだよ」
しかしその考えはまだ甘い。
「前世の記憶があるレアなおじさん」という可能性がある。
「それはいつの話ですか」と私は尋ねた。
おじさんは応えた。
「おとといの話」
これで前世の記憶がある説は崩れた。
それならばこうも考えられる。
「死んだ」は「死にかけた」ということで誇張表現であると。
「おじさんが鮫に食べられてもなお何とかなった話」
であるという可能性。
しかしおととい鮫に食われたおじさんには生傷ひとつない。
この説も崩れた。
私は諦めて耳を傾けることにした。
「あれは俺が若い女と浜辺を歩いていた時…」
おじさんは語り始める。
女の名前は忘れたよ…と訊いてもないのに何度も呟いていた。
「ぴゅーっと風が吹いてよ、女の麦わら帽子が海に飛んでいったのだよ」
麦わら帽子の季節ではないな〜と思いながら頷く。
「俺はそれを拾いに行ったんだ。俺が濡れた帽子を拾い上げて、女の方を振り返ったとき…」
ごくり…。
「鮫に食われちまったのさ」
とんでもない浅瀬である。
映像がうまく想像できなかった。
何でもネットで見れる世代は想像力が欠けてゆく傾向にあるのだろうか。
駅のホームを通過する電車を観ながら、おじさんは
「ちょうどあんなもんだよ、鮫ってのは」
と言っていた。
「鮫の歯は硬いんだぞ」
と半ば脅すように私に言う。
「そんなに硬いんですか?」
と訊くと、
「なに?硬いなんてもんじゃないぞ。硬いって言葉じゃ足らんわ!」
と逆ギレされてしまった。
私は話を終わらせるために
「それで死んでしまったわけですね」
と言った。
おじさんは頷いて
「これが、俺が鮫に食べられて死んだ話よ」
少し間が空いて、おじさんが
「俺の話を最後まで聞いてくれたのはあんたが初めてだよ」
と言った。
「興味深い話でした」
と私は会釈した。
「じゃあな」とおじさんは改札に消えていった。
おじさんがボロボロの麦わら帽子を持っていたことにそのとき初めて気づいた。
入れ代わりに友達が改札から出てきた。
私はその友達に、今から海に行こうと提案する気満々であった。